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能 花月

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投稿日時
2013-05-13 23:29:07

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こぎつね

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投稿者コメント
お褒めの言葉を頂けて、調子に乗ってまた能絵を描きました。

ごてごての後だからあっさりめ
でもちょっと今回説明文が長文です。ごめんなさい!語りたかったの!


美少年かげっちゃん


清水寺にやってきた諸国行脚のとある僧。
その前に花月と言う名の喝食(かっしき=半俗半僧の芸能者)が現れ、舞い謡ったり弓を射る真似をしたりといろんな芸を見せます。
それを見た僧は花月が行方不明になっていた自分の息子であることに気付き、再会果たした2人は共に仏道修行の旅に出るのでした。




私は能の魅力の1つは行間の広さにあると思っています。
シンプルなストーリーに乏しい心情描写。かわりに多いのは古典の引用や地所の謂れ、風靡な情景描写

だからこそ「この人はいったい何を思っていたのだろう?」というのを想像する余地があり、そして正解が書かれて無いからこそ見る人がそれぞれの思い・解釈を持って楽しめるのだろうと


花月は私が何度も「この人はいったい何を思っていたのだろう?」を考える曲なのです。

能としては短くて見やすくて芸が多くて明るい楽しい曲です。

しかし内容を深読みすると、拉致拘束の上の親子再会。(花月は天狗に浚われて山々を連れ回されたと語っています)
そのうえはっきりと書かれてはいませんが衆道の気配もします(アイ狂言(清水寺門前の男)と肩組んで「恋はくせもの」とか歌ってたり。渇食がそもそもお稚児っぽい解釈も出来たり)

天狗に浚われて山々を連れ回された=悪僧にお稚児さんとしてあちこちの寺にひきまわされた
とかいう見方もありまして…

そのような境遇を経た彼が、父親と巡り合ってそこにあったのはどんな気持ちだったのだろうかと

「私は父の左衛門だ見忘れたか」と僧は言っていますが花月はそれに直接返事していない。それから、最後まで父とは言わず御僧としか呼んでいないのです

親としてよりも仏教徒として芸=俗を捨て仏門に行けることを喜んだのか
ただ父親と理解せず衆道の相手と見たのか
別にそこまで勘ぐる事のない話なのか…


答えは出ないのですが、こうして考えるのが楽しくて時々暇な時に考えていたりする(笑
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